運営責任者ご挨拶 of プレミアム・コンシェルジュデスク produced by 樋口国際法務事務所/樋口行政書士事務所

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updated 2017-08-06

TEL 0798(20)2055
樋口国際法務事務所/樋口行政書士事務所
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運営責任者 樋口龍司

 私は、2003年3月から樋口国際法務事務所を運営し、在留ビザ業務専門の行政書士として活動してきました。日常的にさまざまな外国人の方からビザの相談を受ける中で、ある一つの大切な要素があることに気づきました。それは、「会社経営者(個人事業主)が生きていく上で最も大切なのは、会社経営上の悩みをできるだけ短時間で解決していくことである」ということです。

 あなたの悩みの解決に、「プレミアム・コンシェルジュデスク」サービスをぜひお役立てください。

 悩みを解決する上で、私がいつも大切にしていることを語ったビデオです。ご覧頂けましたら光栄です。



運営責任者
樋口 龍司 Tatsushi Higuchi  【 行政書士 】  
樋口行政書士事務所/樋口国際法務事務所 代表
"プレミアム・コンシェルジュデスク" サービス運営責任者

子供の頃から我が強く、友達とよくけんかをした。
殴り合いのけんかはあまりしなかったが、意見の衝突から口げんかをすることが多かった。

小学生時代は、草野球に明け暮れた。ピッチャーやセカンド、レフトなど、いろんなポジションで野球を楽しんだ。
中学受験するも、受かるはずはなく、地元の公立中学へ進んだ。
そこでは卓球部に入部。20周ダービーが盛んで、1位以外は抜けれないルールだったため、30周走らされることもしばしばだった。
高校はあまりいい思い出がない。仲間にはめぐまれたが、あっという間に過ぎたという印象。

大学受験に失敗し、一浪する。予備校のプロの授業を初めて体験し、学問の素晴らしさを知る。(ほんとか?)
この一年だけは、よく勉強したと思う。

大学時代の4年間は、遊びに明け暮れた。友人との夜遊びとアルバイトに日々精進した。
当時よくやった遊びは、ビリヤード、ゲームセンター、パチンコ、麻雀、合コン、お酒、カラオケなど。やったアルバイトは、クロネコヤマトの引越スタッフ、灘神戸生協の配送センターでの商品詰め作業員、浜学園での塾講師、レストラン北山でのウェイター、新明和工業での工場スタッフ、レンタルレコードやさんでの店員、などなど・・。
麻雀はすこぶる弱く、いつもほぼ最下位。夜中の3時に罰ゲームで吉野家の牛丼を4人分買い出しに行かされた回数は、恐らく一番多い。

卒業後、パナソニックに入社。平成元年入社。言わずと知れた「平成バブラーズ」 何も考えずとも、どこにでも就職できた時代だった。例外にもれず、私も何も考えなかった。
成績が悪いのに入社したものだから、配属は希望通りにはいかず、いきなり子会社への出向配属で社会人生活がスタート。といっても、パナソニックは配属まで半年間研修があった。製造実習を1ヶ月半。販売実習を1ヶ月半。

販売実習は、気合いの足らない大阪組、約40名が選抜され、栃木県宇都宮市に左遷。寮での共同生活のもと、近くのナショナルショップ店に通った。
休日は、お店が休みとなる水曜日。ここぞとばかり、寮仲間の有志でレンタカーを借り、火曜の夜に寮を出発。富士山へのドライブ! 水曜の晩に寮に戻り、木曜日は出社。
そんなことを繰り返し、1ヶ月半はあっという間に過ぎた。

大阪に戻り、正式配属後の仕事は、自動車電装品の開発設計部署。2年目後半から、当時(今も)最も厳しいと評判のM氏が直属の上司に。かなり鍛えられた。
当時の自分の100倍くらい仕事が早く正確だった。どうやったらそんなになるのか必死で盗んだ。未だにM氏には追いつけていないと思う。

入社4年目。26歳のとき、父が他界。1年間の闘病生活の末、帰らぬ人となった。
ずっと親父に反発してきた人生だった。その反発する対象を失ったとき、父親というものの本当の偉大さに気づかされた。「自分が親になったとき、子供に対しては、親父のような生き様をみせてやるぞ。」そう思った。

入社7年目。30歳。自動車電装品開発商品を北米ビッグ3(GM、フォード、クライスラー)に売り込むための現地駐在要員として、私に白羽の矢がたった。当時、TOEICは300点代。お世辞にも英語圏での生活はできない。
「樋口! おまえはこれから1年間、一つの開発商品に没頭するんじゃなくて、この研究所の全商品を広く浅く見とったらええんや。それと、英語や。この2つを頑張れ!」
当時のK所長(部長)から言われたこの言葉は、今でも脳裏に残っている。

当時私は、母親との2人暮らし。まだ独身だった。今からアメリカデトロイトに駐在となると、最低5年と言われているから帰国は35歳以上。そして、日本には父と別れたばかりの母を一人残すことになる・・・。
組織(特にパナソニックのような巨大組織)においてはタブーとも言える、北米駐在候補辞退宣言をしてしまった。

それから6年。36歳のとき。会社が早期退職制度を発表。それに乗るかのように脱サラを決意。そのきっかけは2つ。
この年の春、母が緊急入院。手術当日、仕事の忙しさから、年休をとって病院に行くことができなかった。パナソニックという会社は、やる気次第でいくらでも大きな仕事ができた。しかし、いくらがんばっても決してほめられることはなかった。仕事自体はとても好きだったが、評価の不平等さが自分の肌にはどうしてもあわなかった。
もう一つの理由は、自分の夢。もともと独立心が旺盛だった。20歳代のとき、パナソニック社内のオープンチャレンジ制度(配置換えを所属人事を通り越して立候補する制度)に2度も応募した前科者。もちろんどちらも不合格だった。パナソニックが認めへんねやったら、自分でやるしかない。やらせてくれ! そう思った。

母の闘病生活を支えながら、パナソニックに退職宣言をし、夜は早稲田セミナーに行政書士試験合格講座を受講しにいく日々が続いた。
嫁さんとの約束は、「一回だけ挑戦させてくれ」 とってもやさしい国家試験とはいえ、1年に1回の試験。この1回のチャンスをのがすことができないという環境。どんなに想定外のことが起きても余裕で合格できるよう、満点を目指す受験勉強を続けた。
2002年10月。試験後の自己採点。140点満点で86点(6割)以上が合格。自己採点結果は、104点だった。

行政書士試験日の2ヶ月前。2002年8月。母は帰らぬ人となった。闘病生活は1年間。10メートル先のトイレに行くのに30分かかる。自宅ベッドの横に添い寝をし、トイレへのサポートや、下の処理などをやってあげた。

人間は、両親のおかげでこの世に生を受ける。決して自分だけの力で生まれてきたのではない。自分が自分らしく自分の人生を全うすることこそが、自分を産んでくれた両親に対する最高の親孝行である。そのとき、そんな風に思った。

どんなに苦しいことがあっても「死んだらあかんのや!」
常に未来は希望に満ちあふれている。
人生はすべからく自分の想い通りになっていく。

「輝く未来へ 確かな明日へ」
私の事務所の前に掲げられている案内板には、この言葉が刻まれている。

2003年3月。行政書士事務所を開業。誰にも負けない分野を創るんだとの信念で、「在留ビザコンサルティング業務」を専門にしていった。
役所の担当審査官から、「樋口さん、それは無理ですよ。前例がありませんからね」と言われた案件を、役所の担当審査官や統括審査官も巻き込んで正当性を担保しながら、何件許可まで導いてきたことか!

パナソニックで鍛えてもらった「諦めない気持ち」
父に教えてもらった「男は背中で生きるんや」
母に教えてもらった「人間は感謝が大切やで」
親友に教えてもらった「責任の中に優しさがある」

みんなに感謝する日々。

まだまだ人生これから。
育ててくれたパナソニックのために、両親のために、家族のために、親友のために、そして、今まで知り合わせてもらった全ての方のために。今日も私は前を向いて歩いていきます。

本日も生涯の一日なり。
皆様、どうぞ宜しくお願い致します。

1965年, "兵庫県" にて出生。1989年3月, "立命館大学" 卒業。同年4月, "松下電器産業株式会社" 入社。2002年2月,早期退職。翌年2003年3月, "樋口国際法務事務所" 設立。在留ビザコンサルティング専門事務所として、数多くの難関ビザ申請を許可に導く。2011年10月、”プレミアム・コンシェルジュデスク” サービスを立ち上げ。現在に至る。

【歴任役職】兵庫県行政書士会 本会理事(2011年度)、兵庫県行政書士会阪神支部 副支部長(2011年度)、関西日中平和友好会 理事(2010年度)、えびす社長大学 会長(2009年度)、早稲田セミナー 講師(2006年,2007年)、株式会社アメリッツ 監査役(2005年〜)

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